「許す」ということはかなり難しい。
意外そうで当たり前のことだけど、「どうでもいい人」を許すことは割と簡単だ。「どうでもいい人」は私にとって影響力の低い人間だし、相手にとっての私もそう。今後関わりたくないくらいに嫌なことをされたら、それこそ今後関わらなければいい。

家族や、恋人や、配偶者、友人といった、私にとって大事な人間の過ちを許すのは難しい。愛情は憎悪と表裏一体だというのは本当だった。私は相手の過ちを矯正しなければならないし、けれど教育的な立場になるには心のダメージが大きすぎる。相手が間違った道を歩んでいたなら、それを見過ごさずに矯正しなければ、いつかまた同じ問題で傷ついてしまう。相手の過ちを矯正するのは、相手のためでもあるし、私のためでもある。

そういう状況のときに、どうすればいいのか、まだ私にはわからない。
裏切られたり、ウソをつかれたりするのはとても辛いし、大事な人から傷つけられるほど傷は深くなる。そして相手を責めてしまう。けれど責めるばかりでは相手は矯正されない。教育しなければ、矯正されることはない。むしろますます拗れてしまう。正しく教育するには、「許す」ことはとても重要だと思う。

「許す」という難しさを痛感している。
憎しみや哀しみを自分の力で咀嚼して昇華して相手を許さなければ、相手を矯正することはできないし、相手を矯正しなければ、結局相手も自分も救われない。ということは、幸せにはなれないということだな。

私は幸せになるために生きている。